清酒「分福」「男一心」醸造元・分福酒造株式会社

毛塚記念館

  • 毛塚記念館とは
  • 外観
  • 1階
  • 2階

写真でおわかりのように江戸時代後期、館林城南西部の本紺屋町(現在の仲町)に、丸木屋として酒蔵を構えました。時を経て昭和30年北側の敷地(樽置き場)を分家し、昭和50年老朽化に伴い酒蔵を現在の野辺町に移転し、平成9年毛塚家住居である母屋も取り壊す際、「おみせ」(店舗)だけでも残せばこの地が酒蔵であったことを示してくれると思う気持ちと、町屋の特徴を持ち文化的価値が高いので残してほしいという行政からの要望もあり、綿密に調査した結果、「国土の歴史的景観に寄与している」として平成10年国の有形文化財に登録され、保存修理工事を行い往時の姿に復元させたのが毛塚記念館です。

古いものを保存維持することの難しさを十分理解しており、現在古い家をお持ちの方々にはぜひとも歴史の重みを消さず共に歩んで頂きたいと感じております。
又、この記念館を訪れる方に【どこかに忘れてきてしまった古いものへの懐かしさ・安らぎの空気】を肌で感じ、心の豊かさを積み重ねて頂けたら幸いなことと思っております。

いずれにしても地域のオアシス、コミュニティの場としてなるべく皆様に活用して頂きたく拝観は無料にしています。また一階では日本の文化・伝統を残すお手伝いになればと思い、地元の作芸家の 手造り品の発表の場としています。

江戸時代の館林は、中絶期を挟み、榊原、松平(大給)、徳川、松平(越智)、太田、井上、秋元の七家の大名により藩政が敷かれ、現在の市街地は、城を中心に栄えました。
城と侍屋敷の西方の城下町には、秋元藩時代、18の町人町があ り、明治期の図面資料などから、切妻屋根の町家が道に沿って建ち、町並みを形成していたことがうかがえます。
 この建物は江戸時代末期から酒造業を営む毛塚家の店舗です。毛塚家は、下野(栃木県)より館林城下南西部の本紺屋町に移り住み、酒造りを始め、「丸木屋本店」の屋号で明治、大正、昭和前期と営業を続け、昭和29年に「分福酒造」と改称し、現在に至っています。
 昭和50年に市内野辺町に工場が移転する前は、通りの南北の敷地の中に、倉庫や酒蔵などが並んでいました。 店舗は、一階を開放的にし、二階を格子にするなど、町家の特徴を備えています。

 分福酒造店舗は、館林旧城下に現存する数少ない本格的な町家の一つで、往時の雰囲気を現在に伝えていることなどから、平成10年、文化財登録制度に基づき「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として登録文化財となりました。 平成9年度より平成11年度にわたり、保存修理工事が行われ、店舗部分が現在地へ曳移転され、明治時代以前の姿に復元されました。

  1. 当社製造の地酒の販売。
  2. プロ、アマ問わず地元の方の陶芸・民芸・作品の発表の場として展示販売もしています。

当館での売上の10%を「毛塚基金」としてプールし、市内の小学校に本の寄付をする活動をしています。
(第一小学校、第二小学校、第三小学校に「毛塚文庫」あり。)

分福酒造が以前使用していた酒道具、毛塚家で使っていた物の展示をしています。